あれからこれから

不安障害と更年期うつを抱えた私の記録

楽しいことは忘れないんだね

昨日、8年ぶりに兄に電話した。

父の生存確認のため。

兄には父親の様子だけ見に行って欲しいとお願いしていたので、私の電話番号だけ教えている。再婚したことも教えていない。

 

私は兄が嫌いだ。

不快な表現すみません。

小1の頃から兄に仕打ちを受けてきたから仕方ないよねと目を瞑っていただきたい。

しかも、兄は私にやった暴力暴言をまったく覚えていない。

いじめた側の人って、相手がどれだけ傷ついたか分からないっていうもんね。

 

兄にここ数年の体調を聞かれ、PTSDと診断が降りた事を言ったら、

「親父のせい?」と返ってきた。

いや、お前もな!(心の声)

30年近くこの調子なので、あきれて何も言う気になれない。

 

 

私が10年前に行方をくらましてから、

兄が「生活出来ているのか、ご飯食べれているのが、何か困った事があれば俺に言え。たったふたりの兄妹なんだから」などとメールを送ってきたが、人間都合の悪いことは忘れてしまうんだなあと思った。

もちろん、謝られたこともない。

 

兄は私と父の間に起こった事を薄々感じとったのか、数年前、「もしかして…」と聞かれ、私が否定しなかったので分かっているよう。

 

 

兄曰く、父から私の話しはいっさい出てこず、ボケることなく元気にやっているらしい。

私は80過ぎてもなお車に乗ってる父が、人様に迷惑をかけないか心配だった。来年ようやく免許も返納するそう(今すぐして欲しいけど)

 

親父の葬式は出ないだろ?と聞かれた。

たぶん葬式には出れないと思うけど、小さい時の写真が一枚もないから、それだけ欲しいっていうと、

兄「あの長屋の時が一番楽しかったなあ」と。

 

人って、楽しかったことは忘れないんだね。

 

個性との付き合い方



精神科医YouTubeを時々みるようになった。2年ぐらいになるかな。

ボードを使って分かりやすく説明してくれ、色んな疾患の違いが似てるようで違う事が学べる。

そんな私もそもそもYouTuberってなんなのさ。みんな素人さんを観て何が面白いの?と思っていた。

私は昭和の人間で、テレビっ子なので、幼少からの娯楽はテレビ。YouTubeは映画や音楽関係と分けていた感じ。

その内芸能人がこぞってやるようになり、コロナ禍くらいから私もお気に入りの人が数人出来た。

 

確かに、調べものをしていると、必ずYouTubeに説明動画があって、長い文章を読むよりもわかりやすい。皆それぞれの個性があるから声のトーンやら、ワザとらしさがない感じの人を見る事が多い。

 

その中でも、先に書いた精神科医のはわかりやすく自分の中で起こっている摩訶不思議な事を少し理解できる。

先日、

不安が強い女性とASD男性のカップルが多いという回な目がとまった。

不安感が強いと言えばまさに私のこと。

この様な女性は動じない男性をすごいと思い惹かれてしまうのだという。ん?

確かに私は動じない夫に惹かれた。

「すごいな、この人」が、第一印象。

 

実は男性が動じないのは、他者に関心がないからという。

確かに夫をグレー…(この表現あんまり好きじゃないけどね)と、言われた事はある。でもそれは彼の個性だと思ってきた。

彼は仕事ができ、周りに認められているが、とにかく思ったことをズバッという。それが社長だろうと。正義感が強く、曲がった事が大嫌い。

そして周りの空気を読もうとしない。その横であくせくと私がピエロになってフォローする感じ。

 でも、実は寂しがり屋で人懐っこい彼が気になり、変人好きの私は瞬く間に恋に落ちた。

 

夫は俺に着いてこいタイプではない。

お互い楽しく生きていこうよスタンス。

 

たまになんで私の苦しみを分かってくれないのかと発狂してしまうが、そもそも赤の他人。何でも考え過ぎてしまう私とは合ってる気がすると最近ようやく気持ちに折り合いが着く様になってきた。

 

付き合いはじめ、そんな事言われたら傷付くから言わないでと、採算私が言ってきたのが効いたのか、最近はズバッと言わなくなった。それとも私が慣れたのか?

 

今は職場の若い子たちから頼りにされているそうだ。「あれ、今日肌荒れてるね。」なんて事は言ってないと信じたい。「ハラ」で訴えられちゃう世の中ですから。

 

 

 

ゼロヒャク思考

 

今、八方塞がってるっぽい。

はじめてのカウンセリングは正直きつかった。担当の先生は穏やかな人だったけど、行くのも話すのも疲れてぐったり。

 

仕事もしばらくお休みになり、働きたいけど働けない、働かないといけないけど働けない、働きたくないけど働かないと。

色んなバージョンが出てきて混乱中。

 

「あなたは甘えてるんじゃなくて病気だからしょうがないの。もう無理しなくて良いの」

と言われ、いや、薬飲んで頑張れば働けるんですわ、今までもそうやって来ましたし、と変なプライドが出てくる。

こんな風に考えてしまうのは、自分の0か100かで考える思考のせいだと言われた。

確かに先生のいう通り、もう精神力だけではどうにも体が動かない。

これが甘えじゃないということなんでしょうか?

 

本当は開き直りたい。

精神疾患ですが、何か?」

でも認めたくない。普通の人達の輪の中に入りたいと相変わらず思っている。

 

正直こんな私にした過去を恨んでる。被害者は心にキズを負ってずっと苦しんでるのに加害者はのうのうと生きてるなんて理不尽すぎる。

世界中どこもかしこも理不尽だらけ。犠牲になるのはいつも弱者。いつまで戦争やってんのよ。

小さい頃からずっと頑張ってきたのに、大人になっても苦しんでる自分、不憫すぎ。

もう楽に暮らしたい。

怒りと弱音が渋滞中。

 

先生に障害年金を勧められた。私なんかが良いの?と気が引ける。でも正直働けずに困っている。こんな制度があること知らなかった。

自力でやるには難しそう。とりあえず10年前に行った初診の病院に電話したらカルテ残ってないと言われ、出鼻をくじかれた。チン。

 

 

 

 

【更年期体験記⑬】無理しちゃうのは、なあぜなあぜ?


昨年の6月、体調面で特にひどかったのは、のぼせと耳鳴り

耳鳴りにはもう慣れっこだったけど、この頃の音量はいつもの3倍。

TVの笑い声が響いて頭の中で反響する。立っても座っても何をしてても耳の奥で音が鳴ってる。さすがにキツイ。

汗がドバーっはないけど、首の後ろから顔全体が急にカーっとのぼせる。キッチンに10分以上立てられない。

夜は眠剤ありでも寝付けず、夜中に何度も起き、寝不足が続く。

 

 

婦人科からもらった薬を飲めば、そんな状況から抜け出せるに違いない。

期待大で処方されたプレマリン錠を飲みはじめた。

 

nemuko8888.hatenablog.com

 

でも、その後、腹痛と下痢が続き、さらに体力を奪われる。

 

 

朝も起きれず、仕事も休みがちに。

いかんいかん、仕事にいかなくては。

と、行ってもミスばかりで周りに迷惑をかける。しょぼん。

 

頭が回らない。

できない自分が情けない。仕事中、自然と涙が出てくる。

みんながすごい人に見える。

自分だって昔はできてたのに。

 

 

職場は女性だけ。上司は更年期障害がひどかった家族がいることもあって理解が高い。

「今はそういう時期だから無理しないでください」と言ってくれる。

ありがたいです、本当。私は恵まれている。

 

本当はしばらく休みたい。

でも私はアルバイト。休んだからといって傷病手当がでる訳ではない。経済的なこと、夫の体調のこと、休む訳にはいかない。

それに好きな職種で理解度高い職場、手放したくない。新しいバイトさん入れるってなったらどうしよう。やめて次探すことになっても、50過ぎでこんな条件良い所もう無い。

 

私の頭の中はますます頑なになり、無理しないでという職場に「大丈夫です!」と言って、無理に無理を重ねまくった。

 

 

薬を飲みはじめて10日後。

特に何の変化もない。キツイのは変わらず。

婦人科で10日間の状況を伝えて、腹部の張りや腹痛があったので内視鏡検査をした。

子宮が腫れてるなどの異常なし。

 

先生がモニターを見ながら一言。

「あー、閉経してる子宮だね」

 

えっ、どうゆうこと!?
見て分かるの?

シワシワなの、、、?

 

結局、腹痛は薬の副作用が原因ではなさそうとのこと。

しかし、効果が見られなかったため、貼り薬への変更を勧められた。

 

 

シワシワになった我が子宮を思いながらの帰り道。

不妊治療の時は色々大変だったね。

長年頑張ってくれてありがとう。

私も無理するのはもうやめるよ。

 

 

 

【更年期体験記⑫】ホルモン補充療法はじめました



ちょうど一年前、2023年6月から ホルモン補充療法をはじめた。

で、今はしていない。

えーっ!あんなに悩んだくせに辞めたんかい!自分でツッコミ入れるぐらい早々に辞めてしまった。

 

結論から言うと、

やって良かったこともあるし、やらないで良かったような気もする。(私の場合)

 曖昧…



ホルモン補充療法 (HRT) は、減少したエストロゲン (卵胞ホルモン) を補充し、更年期障害を改善する治療法です。保険適用で自己負担も少なく、更年期障害の根本的な治療法として最も期待されています。

 

色々調べて、副作用が出るかもしれないことも分かった。

 

つらい症状を和らげるメリットと副作用が出るかもというデメリット。果たしてどっちが勝るんだろう?

全部が良くなる魔法のような治療だったらみんなやってるはず。

私の周りでやってる人はおらず、むしろ否定的な意見の人が多かった。

でも、何かやらずにはいられないほど一年前の私はひどく追い詰められていた。

 

 

治療を始める前には内診などの検査が必要。

私は年一の健康診断で、子宮がん、子宮頸がん、乳がん、全て陰性だったので、即GOサインが出た。

医師に勧められたのは『周期的投与法』

まず、エストロゲン剤を飲み、10日後から黄体ホルモン剤を飲む方法。薬を飲むことで擬似生理のようなものがあると言われた。

 

もう腹は座った。

どうせこの10年薬漬けだった。

飲んでやろうじゃないの。

鼻息荒く婦人科を後にした。

 

薬はエストロゲン製剤のプレマリン錠というもの。とりあえず10日分処方された。経過を見るため10日後にまた来てねと。

 

 

 

主治医との相性

 


病院探しには本当に苦労した。

 

10年前に私がはじめて行った心療内科は、今の主治医と同じく女性医師だった。

女性の先生なら気持ちを分かってくれるはず。

そんな思いで必死に見つけた病院。

 

ところが、初診で私の期待はあっさり裏切られ、医師に言われた言葉にひどく傷ついた。

セカンドなんたらだ。もうボロボロ。

でも他の病院を探す気力は無い。出された抗不安薬を飲んでしのいだ。

薬が効かなければ「はい、次はこれ飲んで」。

そんな感じで1年半通ったけど、私の症状は良くなるどころか酷くなり、薬の量は増える一方。

抜けられないループにまんまとハマってしまった。

 

 

今の病院は予約制。先生は現在新患をとっておらず、患者数を抑えている。

いつも30分以上話をする。もう帰った方がいいですか?と、こちらが心配になるぐらい。

今まで行った所は初診が30分、2回目からは薬がどうだったかを聞かれるぐらいで長くて10分だった。

 

今の主治医に出会えたことは本当にラッキーだったと思う。

私は知人のツテでうまく入り込む事が出来たけど、それでも予約できたのは1ヶ月先だった。急を要する人にはハードルが高い。

それに、医師と相性が合うか信頼できるかは行って話をしてみないと分からない。

 

主治医から「一緒に楽になる方法を探していきましょう」と言われた時、

このあと壺勧められたりしない?と一瞬疑いたくなるほど、私の心療内科医に対しての不信感は強かった。

「こんな先生もいるんだ」感動の出会いだった。

 

 

先日メンタルだだ下がりの私は、苦しい胸の内を手紙にしたため主治医に送った。

(怖っ)

送った後に、またやっちまったと思っても後の祭り。 

またと言うのは、私が手紙を送ったのはこれが2度目だったから。

でも、次の診察日まで2週間もある。

もう気が狂いそう。OD寸前。

 

一回目の手紙を書いたのは、少しずつ減薬を初めていこうかと話していた頃。

予約の日にどうにも動けず、そんな自分が情けなく、薬を取りに行ってくれる夫にほぼ殴り書きの手紙を託した。

でも、先生は「本当のあなたが分かった」と言い、その後私が拒んでたカウンセリングの必要性を説かれ、自立支援も手続きした。

 

 

私は人と話す時、その人に合わせた自分を装うクセがある。これが販売という仕事では役に立っても、プライベートではキツイだけ。

病院に行くとちゃんとしなきゃと思っている自分がいる。どうしても自分は甘えてると思ってしまう。

何度も「甘えじゃなくて病気なのよ」と言われても呪縛が解けなくて、先生も困った患者だと思ってるだろう。

 

一年経って、ようやく先生に甘えられるようになったけど、信頼からの甘えと思ってもらえてると良いな。

 

 

 

 

うちの家族

 

 



幼少期、6軒ほど並んだ長屋に住んでいた。

そこは木造2階建で、両親は 1階で商売をしていた。 私には4つ離れた兄がいて、家族4人でその長屋の2階で暮らしていた。部屋は6畳ぐらいだったと思う。もしかしたらもっと狭かったかも。

 

長屋はお風呂が無く、トイレは共同だった。

幼ないながらに「うちは貧乏」と思っていた。

だからと言って不幸だったかというと全くそんなことはなく、楽しい記憶しかない。

両親が忙しい時は他の長屋に住んでる人が相手をしてくれた。

お肉屋さんの配達に連れて行ってもらったり、お茶屋さんのおばあちゃんの横で水引で遊んだり。長屋の人たちは仲が良くて、一番小さかった私はみんなから可愛がられていた。

 

私は昔病弱だったので、幼稚園は休みがちで家にいる事が多かった。

兄は早くから保育園に預けられ、近所に住む祖母が お迎えをしていたようだった。兄は祖母の家にいることが多かったんだろうか、この頃の私は兄といた記憶があまりない。

 

小1の秋、突然一軒家に引越した。田舎の新興住宅地で似た様な家が並んでいる所。

私は鍵っ子になった。

両親は仕事で夜遅くまで帰ってこず、今までコミュニケーションをとってこなかった兄と2人。歩み寄ろうと努力したけど、兄は私を拒絶した。

優しかった母は世間体を気にする教育ママになり、いつもイライラしてヒステリックになった。

 

そんな中、父だけが変わらなかった。居場所がなくなっていく私にとって、父だけが救いだった。

父は自分の父親(祖父)を激しく憎んでいた。

父は2男3女の長男で、祖父が家族を捨てて女性と逃げたため、学校にいかず10代の頃から働いて家族を養っていたらしい。父は足し算や引き算もできなかった。

青年期に母と出会い、祖母やきょうだいに結婚を反対されたため、家族を捨てて母と結婚した。そんな父が祖父を恨む理由は理解できる。

だから私の旧姓は母の姓だった。

 

父は映画が大好きで、私に分かりやすくその映画の良さを説明してくれた。2人でよく映画館にも行った。父は感動すると泣くので、子供ながらにちょっと恥ずかしかったけれど、大人だって男だって感動すれば泣いていいんだと偏見は消えた。

父は50年代のアメリカ映画やマニアックなものを好み、それらは明るくて夢がありながらもどこか切ない物語ばかりだった。

映画評論家になりたかったという父の夢の話を聞いた時、カッコいい、なんでならなかったんだろうと思ったけれど、戦後の混沌とした時代背景や、父が祖父のせいで全てを諦めた悔しさは幼い私にはわからなかった。

私も父の影響で映画好きになった。

 

 

私は母から褒めてもらいたくて、ウソばかりついていた。

母がお医者さんが好きだと知れば、「大きくなったらお医者さんになる」なんて平気で大嘘をついた。

本当は漫画家になりたいくせに。

兄はそんなご機嫌取りの私を嫌い、暴力や暴言はエスカレートした。

私も兄を嫌い、全く口をきかなくなった。兄は父と上手くいかなくて孤立していた。

今考えれば似たもの兄妹。

私は母と父が離婚して、父と2人で暮らすことを夢見たけど、残念ながら両親はとても仲が良かった。父にとっては母が全てだった。

私は家庭に居場所がなく、誰か助けてといつも思っていた。助けがこないとわかると、消えていなくなりたいと思った。

10歳にもならない頃の話。